縄文浪漫(№382)
令和3年7月に「北海道・北東北縄文遺跡群」がユネスコ世界文化遺産に決定されました。決定理由は「草創期(16000年前)から晩期(3000年前)までの縄文遺跡が揃っている」ことらしいです。
発見された遺跡が縄文時代の何期の遺跡かを判断するのに、かつては、発見された土器が、どの時期の土器の形状や紋様と最も似ているかでなされていましたが、最近は14C年代測定法を利用することが多いようです。縄文遺跡の発掘調査が増加して、縄文時代の様子がつまびらかになるにつれて、縄文時代と弥生時代の定義がぼんやりとしてきているらしいです。弥生時代の特徴とされる稲作と集団定住生活の遺構が縄文遺跡から次々と発見されてきたからです。
例えば、縄文前期~中期の青森県三内丸山遺跡は、「狩猟生活に明け暮れて移動生活を常態とする原始的な縄文時代」という常識を覆しました。常時、数百人の人々が1500年間1か所に住んでいました。温暖な気候のおかげで、山の幸(鹿、猪、栗、団栗)、海の幸(貝、魚)に恵まれ、農作物(粟、稗、豆)の収穫も豊かであったので移動生活をする必要がなかったのでしょう。また、高度な建築技術(巨大木造建築物)や工芸技術(漆器)を持っていました。北海道産黒曜石や新潟産ヒスイの出土は交易の証拠であり、環状列石や土坑墓、甕棺葬、土偶副葬品は、精神的にも成熟した文化水準だったと想像できます。しかし、水田稲作跡は発見されていません。
縄文晩期の佐賀県菜畑遺跡(紀元前10世紀)で水田遺構、木鍬、石包丁、炭化籾が発見された時は「縄文人が米を作っていた」と大騒ぎになったらしいです。「水田稲作は、渡来人が紀元前5世紀頃の弥生時代に北部九州へその技術を持ち込み、九州から四国・本州へと一気に伝播した」という定説がひっくり返ったからです。
縄文時代には、世界最古の土器(16000年前)や芸術的な火焔土器、世界最古の土偶(13000年前)、世界最古の漆器(12500年前)が創作され、陸稲耕作(8000~6000年前)、水田稲作(4000~3000年前)も始まっています。縄文時代の日本文化は日本独自のもので、同時代の世界から見て文化先進国であったといえます。しかし、縄文時代に不遇の時代がありました。平成10年から10年間、小学校社会教科書歴史編から縄文時代の記述が消えたのです。その理由が「ゆとり学習教育で学ぶ内容を厳選し、(不要と)判断した結果」だというではありませんか。
我々現代人は、縄文時代に対して「未開で原始的で野蛮な社会」「狩猟漁労採集に頼る貧しい生活」「弥生人はしょうゆ顔、縄文人はソース顔」という偏見を持たない方がいいのかもしれないですね。
(古今)