コロナの記憶(№378)

 コロナの波に2年間もまれ続け、いつになったら収まるのだろうと不安が覆います。ただ、ワクチンや治療薬の開発、普及が進み、心の中の景色は以前とはいささか違うように映ります。歓迎すべき変化なのでしょうが、気がかりな面もあります。こうやって緊張と弛緩を繰り返すうちに、忘れてはならない話も一緒に記憶の奥底に追いやってしまうことにならないだろうか。
 大正時代の半ばに世界中で大流行し、日本国内だけで約40万人が亡くなったいわゆるスペイン風邪を思い起こすと、継承することの難しさを痛感します。今回のコロナ禍まで、約100年前のこの災厄が一般の人の関心を集めることは、ほとんどなかったと言ってもいいでしょう。スペイン風邪の場合、人の脳裏に焼きつくような写真や映像も乏しいし、流行の始まりや終わりがいつなのか判然とせず、節目となる日も定め難いです。パンデミックは、戦争や地震などに比べても、後世に伝えるのが難しい性質をもつ出来事といえます。
 もちろん図書館や博物館には、当時を語る資料が保存されています。多くの文人が経験を書き残したし、新聞報道もありました。でもそうした記録だけでは、ただちに継承につながらないと福間良明・立命館大教授(歴史社会学)は指摘しています。
 「人々の間に『記憶』として定着していくためには、ばらばらで膨大な記録から切り口を探り当て、議論を重ねなければなりません。どんな議論になるかは、人々の意識や社会の状況次第。コロナ禍の記憶もこれから作られるのです。」
 現実はどうでしょうか。コロナ禍に翻弄され、非日常が日常になる中、その時々に考えたことや抱いた思いが、一人ひとりの中からこぼれ落ちていってはいないでしょうか。少しでいい、立ち止まり、この2年間のあれこれを拾い集め、考える時間を持ってはどうでしょうか。自分が得たもの、失ったものは何で、次代に伝えなければならないことは何か。人それぞれに異なるでしょう。その物語を重ね合わせていくことが、コロナ禍で傷ついた社会を編み直すための糧になるような気がします。

(makonda)

2022年02月28日