どちら様ですか?(№360)

 昭和の話である。医学部卒業後母校に残った。中学、高校、大学の先輩が何人かいて、熱心に誘ってくださったのが大きかった。今と違って国家試験は3月で、合格発表は4月だったと記憶している。新入医局員は12名程だった。指導してくださる先輩医師1名に2~3名の新入医局員が割り当てられ、今でいうところの研修医生活が始まった。問診の仕方、理学所見の取り方など、学生実習でできていたつもりだったが、甘かった。6月頃になると先輩にくっついて入院患者を診るようになった。
 ある日、70歳過ぎの老紳士が入院してきた。かかりつけ医から教授への紹介で、特室への入院だった。病名は胃潰瘍。出血しているわけでもなく、貧血があるわけでもなく、元気な様子だった。妻らしき女性がいつもそばにいて、優しく寄り添っていた。血液検査、尿検査、内視鏡検査、胸部レントゲン写真所見などを先輩医師とともに説明する際にも必ず同席して熱心に聞いていた。教授回診の際には上品な和服姿で、丁寧にお辞儀をしていた。教授も、お辞儀をしていた。時々見舞客が来ていたが、皆さん品のよさそうな方々だった。ある日、先輩医師と回診に行くと、見知らぬ女性が立っていた。老紳士の妻だった。そう、それまで付き添っていた女性は愛人だとわかった瞬間だった。先輩医師と小生はその愛人に老紳士の病状を事細かく説明していたことになった。妻曰く。主人が入院していたことを私は知らなかった。私に連絡が来なかったのはなぜか。夫の病状を他人(愛人)に話してもよいのか等々。妻が教授に面談を求め、病棟医長、先輩と共に教授室へ呼びつけられた。関西出身で温厚な教授は、笑みを浮かべて「これから気を付けや。ええ勉強になったやろ」。教授室を出た病棟医長、先輩と顔を見つめあってほっとした。それ以来、患者さん以外に同席者がいる場合、必ずかける言葉がある。『どちら様ですか?』。

(ウクレレ狸)

2020年08月27日