私とテニス(№347)

 「君はいったいこの大学に何しに来たんだ?」
 クリーム色の殺風景な壁に、ぎっしりと本が詰まった本棚に囲まれた部屋で、倉谷学部長は私に聞いた。いつもの通り、彼は背広にネクタイというフォーマルな服装であった。それに対し、当時かなり能天気で礼儀作法も知らなかった私は、ジャージ姿でその言葉を聞いていた。そして私は答えた。「はあ、テニスがうまくなりたくて来ました」。少し間をおいて、「そうか、それならもういい。行きなさい」と先生はおっしゃった。私は、その時の倉谷先生の気持ちに気づくこともなく、単純に「分かってくれたんだ」と思い部屋を出た。
 これは、1980年5月、私が大学3年生のときの話である。私はその年、初めて全国大会に出られることとなり、毎日練習に明け暮れていた。ところが、大会の時期が1学期の試験と完全に重なるという大問題に気がついた。これはいけないと思った私は、自分が受講していた講義を持つすべての先生に、試験を追試かレポートにしてくれるようお願いして回った。その活動を始めたある日のこと、掲示板に学部長から私へ呼び出しの張り紙があり、冒頭のやり取りとなった。結局、その時受講していた講義の半分以上の成績が「D」(不可の意味。1回これがつくとその年にその科目の単位は取れない)となり、私は危うく大学から除籍(退学とは異なり、大学にいた記録も抹消される)されそうになった。
 中学1年からテニスを始め、約50年経った今でもテニスを続けている。試合にも時々出ている。そして最近では、試合だけでは飽き足らず、母校の試合も頼まれてもいないのに見に行くようになった。息子にもよく「飽きないの?」と言われるのだが「飽きない」のだ。大昔に、自分でも何故続けるのか考えたことがあるのだが、多分これは治らない病気にかかったのだと思っている。
 私は社会人になって「生きるための技術」を仕事から得たが、「生きる上での哲学」はそのほとんどをテニスから学んだ、と思う。
 ちなみに冒頭のやり取り、そしてそれに続いて自分に起こったことから得た教訓は、「なにかに熱中すると、他の何かを捨てることになる」である。

(積善会社長)

2019年07月26日